心と身体の総括ノート

書かねばならぬと思った。この身体は私が生きるには窮屈すぎた。この心は私が理解するには煩雑すぎた。違う方向を向いた5人がひとつの身体を共有し維持するには誰かが統括せねばなるまい。

ふたたび

過去の自分のブログを読み返した感想。

「こいつ、ブレブレやな。」

笑いが込み上げてきて止まらない。

 

 

病気はだいぶ良くなってきたと思ってる。かといって、動けるのか?と聞かれたら即答でNo!! なんだけど。血糖値は良くなったと思っていたんだが、最近は急な低血糖高血糖に翻弄されている。低血糖で意識を失う頻度が増えたし、高血糖で吐きまくった結果吐血するという頻度も増えた。胃の病気らしい。高校生の時にトライしたピロリ菌の除菌も上手くいっていなかった。脈は常に160bpm以上だし、甲状腺の数値も薬を増やせば基準値以上、減らせば基準値以下と、なかなか思うようにいかない。再燃する鬱の症状、他の人格の喚き声。自分の意志とは相反する行動の数々。精神科の薬も、ただいま増薬中である。

 

 

しんどいこと、つらいこと、嫌なこと、に蓋をして生きてきた。そんな人生にはもちろん、嬉しいこと、素敵なこと、建設的なこと、も含まれているはずなんだけど。誰のものでもない、自分の感情や考えを他人のものとして無理矢理認識させようとしてきた結果、自分で制御出来なくなった。制御出来なくなった感情たちがひとりでに振る舞い始め、別の思考形態として1つの身体に存在するようになってしまった。結局、おおもとの私が、感情に蓋をする癖が抜け切っていないということなんだろうなと思う。でも蓋を開けようとした結果が酷かったからさ。もう開けようとしないことにした。今度開けたら確実に死ぬから。

 

 

「死にたいのになんで生かそうとするんだ?バカなの?」的なことを書いてた。今はそうは思わないよ。医者は仕事をするだけだし、看護師もケースワーカーも然り。もちろん親もね。自分の生活を守るためにみんな仕事をしてるんだなって。そう思うだけ。被害者意識も、救済者意識も持ってはいけない。契約と法律にだけ従順に動くので良い。

 

 

まだ諦めきれない私は、ふたたび、もう一度だけ薬剤師をやってみようと思ってる。次失敗したら、職種変更を考えます。少しずつ自分の考えが現実に沿ってきてると思うんだ。理想と現実の狭間でもがくなら、理想を設定しなければ上手くいくんじゃないのか、という結論に至った。全力を出しても動けなくなるだけだから、だるいなと思った時点で引き返すべきだ。他人のために動くのはきっと私には無理。神経を擦り減らして仕事続けるぐらいなら、スパッと割り切ってセーフティネットに身を預けるよ。

 

 

そろそろ退院しなきゃいけないな。バイトの件数増やして、朝起きる生活リズムを作って、自然な形で仕事に入れるようにしたい。追い詰められると力を出す、ってのは昔からの悪い癖だけど今回は禁止。追い詰められて成功した回数は多いだろうけど、支払った代償も大き過ぎるでしょう。計画的にいこうね。

明日になれば

入院してから早2ヶ月半。

閉鎖病棟への入院は初めてじゃないから慣れた。でも思うことはまだまだ沢山ある。
なんで私が。なんで私がこんな事になったのか。なんで私なのか。なんで今さら。

身体は一つなのに。
私の身体なのに。
昔からうまくまとまらない人格たちが憎くて、もういいやって思った瞬間プッツリ糸が切れたんだ。

何度も死のうとした。
後から聞いた話、発見が後少し遅れてたら死ねてたらしい。7日間人口呼吸器に繋がれ、10日間眠っていた代償は今も後遺症として残っている。

追い詰められた、もう逃げ場はない。
そう確信して生きるのを諦めたのに、今更周りの人間がなんとかして私を生かそうとする。医師、看護師、親、ケースワーカー、カウンセラー。この現象が滑稽でかつ不本意で、彼らに本当の気持ちを打ち明けることなく嘲笑している自分に気付く。

ああ、自分はなんて最低な人間なんだって思う。
他人の努力を嘲笑する最低な人間。
でもさ、死にたくて必死になってる人間を必死に生かそうとしてるんだよ?無駄な労力であること極まりない。それともいつか生きていて良かったって心の底から思える瞬間があるとでもいうの?
無責任だよ。オトナはキライだ。

ニヒリズム。冷笑主義。そんな思想を尊重している。膵臓いかれて甲状腺いかれて子宮もいかれて、食べ吐きして、太って、鬱病になって、解離性障害なんてこじらせて、辛くて前を向けない私に掛ける言葉など残ってはいまい。

とにかく私は今の自分を受け止めきれない。自分自身の身体の症状すら理解してない。無意識で暴れたり無意識で身体の関係持ったりしてるなんて殺意と恐怖感に押し潰されそう。

明日になれば治っていないかなぁ
とか、非現実的な希望的観測をする毎日を送っている。

新しい一歩

年の瀬を迎えた。

私の2015年はとても一言では言い表せない、濃いものであったけれども、あえて言うなれば変化の一年であった。

まずは治療環境の変化。解離性障害と鬱の治療は8月からの2ヶ月の入院を機に一変した。ケースワーカーさんとの出会いや訪問看護の利用、デイケアの利用など、一貫したサポートを受けられるようになった。薬物治療も奏功し、道端で突然倒れたり急に暴れたり、自殺企図をすることがなくなった。

また長年悩んでいた摂食障害。この1年間でだいぶ太ったけれど、太っている自分をちゃんと見れるようになった。体重より重要なことがあるんだって、やっと気付いた。インスリン打つと太る、という誤った認知のせいで1型糖尿病のコントロールはめちゃくちゃになってたここ数年間。糖尿病の良好な治療へはまだまだだけど、やっとインスリン打つことへの恐怖感が消えつつある。来年は笑顔でインスリンを打てるようになりたいなぁ。

もう一つの変化は私の価値観の変化。女であろうがバリバリ働いて自活してこそ生きてる意味がある!と自分の首を絞めていたのだが、もうこの考えは捨てようと思った。パートで適当に働いて実家で親と一緒に暮らす、甘えて生きる生き方を肯定しようと思った。私はもう沢山病気で苦しんだ。だから少しぐらい自分にとって楽な選択をしてもバチは当たらないと思う。

2度の引っ越し。これも大きな変化。一人暮らしを終わりにする決断には時間がかかったけれど今は後悔していない。

そんなこんなで沢山の変化があった年だった。来年は維持の年にしたい。今年の変化の良い部分をしっかり維持する年にしたい。
維持ほど難しいものは無いと聞くので気を引き締めて。

来年もどうぞよろしくお願いします。

妄想〈世界滅亡〉

まともに意思疎通が出来なくなって入院した。

インスリン不足で身体は動かず、世界滅亡の妄想によって自分の世界に入り込んでしまい、失禁するわベッドから落ちるわで物理的に隔離拘束が必要な状態になっていたのである。

世界滅亡の妄想とはいかなるものか。
自分のみが世界滅亡の必然性に気付いてしまい、自ら世界滅亡に向けての首謀者になるという刺激的な内容の物だった。約2週間、まともに食事が取れなかったらしく、意思疎通も出来ず、医者を悩ませたらしい。精神専門病院では静脈栄養管理や糖尿病への適切な処置ができない。食事が取れないために血糖値が乱高下し、死亡フラグを回収する毎日だったみたい。死ななくて良かった。

幸いなことに、躁状態に対する薬物治療が奏功して現在は携帯を触れるまで回復した。

この病院は携帯OKだし、糖尿病のコンサルテーションを別病院の私の主治医に出してくれていて適切な処置をしてもらえているので居心地は良い。自立支援医療制度を利用して訪問看護をお願いするつもりでいる。

はやく治療のラインに乗らないといけない。診断されて以来、まだまともな治療を受けないまま入退院を繰り返している。必要なサービスは最大限利用したい。入退院を繰り返す羽目にならないように。

最近は看護師さんに恋してる自分に気づく。恋してるってのは比喩表現で、どちらかというと女性の看護師さんに焦がれることが多いのだけれど。日々の業務に忙殺されることなく、常に最善を考えてくれる彼らに恋焦がれるのは無理なかろう。

誰かと恋に落ちないだろうかとか、不謹慎なことも考えながら入院生活をおくっている。

甘え、怠惰。

最近のTwitter見ててよく思うこと。みんな医療や薬を過信しすぎじゃないかなぁ。

病気や症状があるのは仕方ないことだし甘えじゃない。だけど、どうしたら治るか情報集めしたり朝起きて夜寝る生活をする為にはTwitter以外にもっと他にあるのではなかろうか?そういうことをせずに「治らない」と嘆くのは怠惰であるはずだ。

この7年間、医者の言う通りに、出来るだけ夜更かしせずに日暮れ以降は間接照明にし、服薬を守り、日々の日課をおこたらなかった。眠剤きかないからラベンダーを焚く。西洋医学だけではなく東洋医学もかじった。病気治すことに専念して頑張ること、それを心がけてきた。

でもね。服薬してるけれど、効かなくて。突然の自殺願望、突然の破壊衝動、突然の下半身不随、私の中の人格との喧嘩。本当に精神科医は治す気あるのか。薬の効果に有意差はあるのか?インタビューフォーム見てると私の学士論文より酷いデータが出てきてげんなりするのよ。

今回で未遂5回目。引き留めた知人や医者を恨んでいる。背中に大きい傷がまたひとつ増えただけだった。

そんなわけで、私自身はは甘えや怠惰を弾糾したい。まだ打開策はあるはずなんだ。怠惰にならないために。甘えを捨てるために。自分に誓う。